佐倉から成田へ 宗吾霊堂・新勝寺 

佐原を目指す途次、かねてから何となく心に懸かっていた義民佐倉宗吾の霊堂に立ち寄り、次いで近くの成田山新勝寺にちょっと足を留めた。言い伝えには真偽とりまぜて諸説あるようだが、素直にうけとめたいものだ。
 
京成スカイライナー。成田空港へひとっ飛び。勿論乗客は殆ど大きな荷物を携えて海外へ。   列車は印旛沼を跨ぐ。まわりが47.5km最大深度2.5m。利根川へ流れ込む。田沼の干拓の舞台。
真言宗豊山派、鳴鐘山東勝寺宗吾霊堂は、佐倉藩の暴政から領民を救うため、将軍家綱に直訴し、その罪により磔刑の処された佐倉惣五郎(木内惣五郎)を祀る。所は、成田市宗吾。宗吾ら名主達の義挙で領民は悪政から救われ、「義民」として今なお追慕され、年間では約250万人の参詣者が訪れるそうだが、この日は何もない日だからか誰もいなかった。
宗吾とは縁もゆかりもないが、長野県飯田市には、宗吾を神として祀る佐倉神社がある。佐倉神社はあっても、佐倉宗吾を祭る神社は、ここだけのようだ。
 
 佐倉宗吾父子の墓。承応2(1653)年8月処刑。その刑場跡に宗吾と4人の子が合葬されている。    大山門。楼上に高村公園作の聖観世音菩薩像を安置。香取雅彦作阿吽の金剛仏が門を守る。
 
 鐘楼。梵鐘は仁王像を製作した香取正彦氏とその父秀真氏の共作。     薬師堂。薬師瑠璃光如来を祀る。他に聖天堂、奥之院、慈眼閣などの諸堂もあった。
 
 大本堂。宗吾を祀る。共に直訴を行い追放の五人の名主も祀る。十間四面総欅造り総銅瓦葺。    大本堂正面。「天下太平万民豊楽」の願いは、今もなかなか叶わぬ願いだが。
 
 宗吾語一代記館では、人形66体で宗吾事績を再現しているそうだ。    「佐倉義民伝」とは芝居の演目。勘三郎、勘九郎など歌舞伎役者が公演成功祈願で参拝。
 真言宗智山派大本山成田山新勝寺。本尊は不動明王。寺の縁起では、939(天慶2)年の平将門の乱の人心を沈めるため、朱雀天皇の勅命を受けた寛朝大僧正が弘法大師空海が刻んだ不動明王を捧持し、成田で護摩祈祷の結願の日に乱が終息。不動明王のお告げでここに留まった940(天慶4)年が開山。
 
総門。2008(平成19)年建立。高さ15mの総欅造。蟇股には十二支の木彫刻が施されている。   仁王門。文政13年(1830)建立の八脚門。左右の仏像は朱振りの仁王像といわれるとか。 
 
 光輪閣。客殿。4階には480畳敷の大広間もある。
20万m2余の山内には30程の諸堂が点在。
   香炉。どなたの願いも五体健康。私も頭から足の先まで煙を、と思ったが,ご婦人ばかりで遠慮した。
 
大本堂。1968(昭和43)年建立。御護摩祈祷を行う中心道場。本尊不動明王は、矜羯羅童子と制咤迦童子を従える。    三重塔。(重文)1712(正徳2)年に建立総高は25m。大日如来を中心に五智如来が奉安され、周囲には「十六羅漢」の彫刻がめぐらされている。
 
 三重塔を見上げたら、なんと極彩色の華やかな文様が描かれている。   「丈六に陽炎高し石の上 ばせを翁
芭蕉追福のため建碑。句は伊賀市新大仏寺にて
 
  凄かりし月の団蔵七代目 虚子 七代目団十郎と六世団蔵の銅像を供出のあと、八代目団蔵が七代目団蔵の追善供養の為、残っていた台座の上に句碑を建つ。    古巣はさびても小鳥はかよふ
    昔忘れぬ屋根の下  鈴木三重吉
三重吉は青年時代、成田中学校英語教師として教鞭を執る。
 
 成田山公園も寺域で,東京ドーム約3.5個分 (16万5000m²)゙広大な公園。鬱蒼と樹木が茂る。   竜智の池。起伏のある山道を歩いて来るも人も少なく、閑寂な別世界かな。
 
 書道美術館。江戸末期から現代までの書作品や資料を多数収蔵する由。    竜樹の池。滝もあるそうだ。梅・桜・藤・菊・紅葉など眺められるそうだ。各所に供養塔、記念碑が。
 
成田山仏教図書館 。仏教書・一般書73万冊余を所蔵。以前利用した時より立派に改築された。   門前街 。飲食店、土産店などが軒を連ねる。天ぷら。羊羹、落花生、漬け物、佃煮、うなぎ……。

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