深川界隈から夢の島へ 1

物語の舞台として多くの作品に描かれる隅田川東岸の江東区深川の南のあたりをちょっとだけ歩いてみた。このあたりは江戸時代に埋め立てられた地で、近年地盤沈下がいわれるゼロメートル地帯で、縦横に掘り割りが走ってはいるが、歩いていて0mを実感することはできない。
深川の土地は、江戸の水郷と言ってよい。江戸湾の海にのぞみ、大小の堀川が縦横にめぐって……。池波正太郎「剣士変貌」
 
地下鉄を降りると、左方の永代橋に繋がる永代通りに出る。両側に立ち並ぶビル群。   通りの向こうに深川不動堂の総門(?)そう言えば七五三も近いなあ。
 
 仲見世通り。通称「人情深川ご利益通り」豆大福、きんつば、手焼き煎餅、仏具……   正式名称は「成田山東京別院深川不動堂」。通称深川不動尊、深川不動堂というそうだ。 
成田山の不動明王を拝観したいという江戸町民の気運の高まりを受け、元禄16年(1703年)成田不動の本尊の出開帳が、当時この地にあった富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれた。これが深川不動堂の始まりであると伝える。
永代寺は富岡八幡の宮の神宮寺で、八幡宮の境内には、枯れてわずかとなっているが、歌歌仙などの……。北原亜以子「ともだち」
 
 正面が旧本堂。左の外壁に梵字の不動明王真言に囲まれているのが新本堂。   旧本堂の「おねがい不動尊」日本最大級の不動明王坐像。
 
深川龍神。「龍神願い札」を浮かべ、傍らの鐘を二つ叩くと御札は水に溶け、願い事が龍神に届くそうだ。龍神様のお世話になるのもと遠慮した.     名優五代目尾上菊五郎の碑.
幕末から明治に掛けて活躍した歌舞伎の名優。
碑の上部の2字はなんと読むのかなあ?
富岡八幡宮は、寛永年間、京都から八幡の神像を永代島と呼ばれた小島に移したことに始まる由。その島の周りを埋め立て、深川門前町などが形成されたという。元禄の頃、永代橋が完成すると参詣人が増加。8月の祭礼は、神田神社の神田祭、日枝神社の山王祭とともに、江戸三大祭のひとつといわれる。  
江戸勧進相撲発祥の地。貞享元年幕府より、深川八幡での春秋2場所の勧進相撲(有料)が許可され、以後約100年ここの境内で行われた。その間に定期興行制や番付制、年寄、部屋などが確立されたそうだ。それで境内には相撲ゆかりの石碑が建っている。
 
表参道大鳥居。鳥居をくぐると左右に「神輿庫」と「大関力士碑」が建つ。    大関力士碑。初代大関雪見山から小錦関、霧島関まで、104人の歴代大関の四股名を刻む。 
 
 巨人力士身長碑。(中央)東の大関 釈迦嶽。身長2m26cm、体重172kg。    手形足形碑。釈迦岳の手形と私の手。とても比較にはならない。
 
 伊能忠敬像。門前仲町1丁目に住み、測量旅行出発の際は八幡宮を参拝していた縁りで建つ。
隣に新地球座標系に準拠しGPSの基準点の国内第1号の三等三角点「富岡八幡宮」も設置。 
  日本一の黄金神輿。高さ4m39cm、重量4.5t、ダイヤ計30カラット、ルビー2000余個、純金24kg などで飾る。もう一基高さ3m27cm、重量約2tの御輿も並ぶ。
 
 八幡宮本殿。    葛飾北斎「深川八幡宮」
深川門前仲町の口入屋、井筒屋重右衛門が…富岡八幡宮の脇の料亭志の田の築山が、あかね色と…… 山本一力「いっぽん桜」 弥十は深川門前仲町のあたりを、精力的に動いていた。飴売りの衣装ではなく普通の町人姿…… 藤沢周平「神隠し」
 
 力持碑。「五拾五貫目」と刻む石もある。206.25kgの石を持ち上げて奉納したのだろう。
玉石に「さし石」と刻む。「差し上げた」のかな?
  横綱力士碑。初代明石志賀之助から69代白鵬までの横綱の四股名を刻む。また超五十連勝力士碑もある。
 
不知火顕彰碑。力士姿も刻む。向かいには陣幕顕彰碑。   住吉社、聖徳太子社など8社を祭る。花本社は松尾芭蕉を祀るそうだ。 
 
弁天池の先に、七渡神社・粟島神社。     木場の角乗り。そしてその由来などを記す。
 
木場の本木遣りの由来。慶長の頃より伝わり、三代将軍家光やグラント米大統領にも角乗りとともに披露したなどとある。    大木遣り。筏に乗って木材をさばく時の労働歌
  えー えーえーやりょう
  やあれえよいよいえー
 深川あたりは魚介類や海苔をとる漁師の町として開け、付近では浅蜊や牡蠣がたくさん獲れた。漁師は獲れたての浅蜊とあり合わせの野菜を味噌で煮、ご飯の上に汁ごと掛けたものを日常食としていた。これが深川めしの由来。(店の資料)
 
八幡様境内の伊能忠敬像の脇の「深川宿」で遅い昼食をとる。深川丼も旅の目的の一つ。     名物「深川めし」1890円.メニューはいずれも浅蜊を用いたもの。味噌味がしっかりと効いていた
今が旬の浅蜊の剥身と葱の五分切を、薄味の出汁もたっぷりと煮て、……汁もろともに炊きたての飯へかけて、大治郎へ出した。深川の人びとは、これを「ぶっかけ」などと……池波正太郎「待ち伏せ」  
 
亀久橋から仙台堀を望む。
亀久橋の下に着けておいたおはるの舟は又六を乗せ横堀の乗った舟を尾行しはじめ…… 池波正太郎「剣客商売・剣士変貌」 
  仙台堀を渡って平野2丁目の交差点近く、民家に挟まれた処に忘れられたように一基だけの墓地があった。史跡故、区画整理で残されたとか。
 
 史跡指定 間宮林蔵之墓
 大正十四年五月  東京府。墓の傍らに建つ。
   間宮林蔵蕪崇之墓。故郷茨城県常総市の小貝川河畔の専称寺にも墓がある
間宮林蔵は安永(1780)年常陸国に生まれ、伊能忠敬に測量を学ぶ。幕府蝦夷地御用雇となり蝦夷地探検と測量に当たる。のち、幕命で樺太(サハリン)を探検してシベリアに渡り、樺太が島であることを発見、その名を間宮海峡として残す。天保15(1844)年、深川蛤町(現門前仲町)に没す。
 
日蓮宗妙栄山本立院。間宮林蔵の墓から数百m。ここは間宮の墓地を管理する。     間宮林蔵先生之塋域
 内閣総理大臣鳩山一郎   と刻む碑がある。
予定外の都立清澄庭園に立ち寄る。この庭園は元は紀伊國屋文左衛門の屋敷跡とか。後に下総国関宿の城主久世大和守の下屋敷となり、明治になって岩崎弥太郎が買い取り、庭園を造成して「深川親睦園」として竣工。昭和になって東京市に寄付されたそうだ。  
 
隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配して、明治の庭園を代表する潮入の「回遊式林泉庭園」。
 
園内の各所に、全国から蒐集した伊豆磯石、摂津御影、佐渡赤玉石、伊豆青石などなど、奇石、珍石の大小を配して造園されており、石回りだけでも楽しめそうだ。紅葉にはまだまだ間がある。  
 
杉風の別荘「採荼庵(さいとあん)」跡の芭蕉像。仙台堀に架かる海辺橋の袂のこの地から奥の細道への旅を始める。 深川に芭蕉ゆかりの地
「弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として…」奥の細道
  法乗院深川焔魔堂。日本最大の閻魔大王座像を祀る。賽銭を投じると説法を聞くことができるとか。歌舞伎の『髪結い新三』の「ゑんま堂の場」はここだって。残念だが割愛した。

夢の島へ INDEX

inserted by FC2 system