歴史の町松代を歩く
 
今は長野市に属する松代は、戦国時代、武田信玄と上杉謙信の川中島合戦に於いて、武田方の海津城が築城された所。武田家滅亡後は、森、松平の城となり、そして真田信之以降幕末まで真田十万石の城下町として、栄えた、かどうかはわかならい。十万石の城下町にしては市街地はさして発展はしなかったというと、叱られるかな。

海津城(松代城)址

復元された太鼓橋と太鼓門。

昭和56年国史跡指定を受けて遺構の発掘や残されている絵図などをもとに、復元整備を続けてきたという。



海津城 本丸跡

太鼓門をくぐると、いきなり本丸にはいる。
今は何もなくて桜が植えられ、ちょうど満開の桜も、まだ四分咲ぐらいの桜も。

先方の高台は天守閣跡かと思ったが、古図にも天守閣はなかった。今は展望台。

恩田杢民親像
                真田公園   松代藩の家老勝手掛かりとして 「嘘を言わぬ」事を標語に、困窮していた藩財政を立て直した経世家。

二宮金次郎は恩田の「日暮硯」を座右の書としていたそうだ。

日本の政治家みんなに是非読ませたい本のようだが、私は読んだことがない。

真田邸庭園

江戸末期藩主幸教は母の隠居所として立てたもので明治以降は真田家の私邸。部屋数が五十四室もあるとか。

現在修理のため建物は非公開で、庭園の一部が無料公開。 

山茱萸や小彼岸桜などが満開だった。

この地方の多くの民家に山茱萸が植えられているのが眼についた。



真田藩文武学校

幕末、佐久間象山らの意見に基づき、藩士の子弟の文武奨励のために建設。

多くの建物や土塀が残っており、建築当時の姿を今も見ることができる。

真田氏から寄贈された、信玄、秀吉、家康などの文書や武具、調度などは、直ぐ近くの真田宝物館で展示している。


文武学校 剣術所

左右には藩主や師範などの座る場所がある。ここで藩士達が激しい稽古をしたのだろう。

剣術所の他に文学所、弓術所、柔術所、槍術所、序という2教室のほかお役所や文庫蔵という建物がそれぞれあった。

槍術所が最も広いのは納得できた。



山寺常山邸

真田邸を筆頭に真田家家来の屋敷がそのまま保存さているところが何カ所かある。

ここは寺社奉行などとして藩政に尽力する一方、兵学教授など教育に力を尽くした常山邸の表門。

書院や庭園があり、休憩所ともなっている。

象山神社

生誕の地に隣接して佐久間象山を祀る神社。
佐久間象山 1811〜1864

幕末に活躍した松代藩士。兵学家、洋学家、思想家。松陰、竜馬、海舟、左内などの師。公武合体論を主張し暗殺される。

象山記念館には遺品などが展示されているというが、今回は足を運ばなかった。



松代大本営 (象山地下壕)

第二次世界大戦の末期に軍部が本土決戦最後の拠点として、極秘のうちに大本営などを松代に移すという計画を元に造られかけた地下壕。

昭和19年11から終戦に計画の約75%が完成.。

延べ300万の住民と朝鮮人が強制的に動員された。



松代大本営
朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑

壕の入口の傍に建つ、漢字とハングル語で書かれた慰霊碑。
食料事情などにより、多くの地元の人と朝鮮の人々が犠牲になった。

地下壕は、舞鶴山(現気象庁精密地震観測室)を中心に皆神山、象山の3箇所に碁盤の目のように掘り抜かれ、その延長は10Km余り。


真田山長国寺
              曹洞宗
 松代藩主真田家の菩提寺

鴟尾の下には真田家の六文銭が左右に掲げられている。

真田歴代藩主の墓と信之の父真田幸村、信之の弟幸村の供養塔もあるというが、何処に?


真田家御霊屋

長国寺裏手の藩祖信之の御霊屋。

屋内は花や動物の彫刻を施し、天井と壁間の絵は鹿野探幽、破風の鶴は左甚五郎の彫刻だそうですが、庶民の目には触れないのでしょう。


川中島古戦場

腰掛けている信玄、馬上の謙信の一騎打ちの像。

永禄4年の第4回川中島合戦のときに信玄がここに本陣を構えていた。

松代から千曲川を渡って車で10分。
今年はNHKの大河ドラマ「山本勘助」の影響か、例年より人出は多いと思ったが、それほどでもなさそうだ。


執念の石

「信玄のもとで本陣を守備していた原大隅は、謙信に槍を突きだすが馬を叩いてしまう。
馬は狂奔して走り去り、謙信を取り逃がした無念のあまり原大隅は傍らの石を槍で突き通したという。」

その石がこれだという。正面に穴が開いているが槍の穴だとすると、槍も腕力も凄い威力だね。



三太刀七太刀之跡の碑

「謙信は武田本陣が手薄になったのを見て、旗本数騎をつれ信玄の本営を強襲した。馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後でこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎打ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。」


首塚
 
「大合戦後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこのあたり一帯の戦死6千余人の遺体を敵味方の別なくあつめ、手厚く葬った塚。

これに感激した謙信は、後年塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いた。」

碑面には「甲越直戦地」とある。


八幡社

山本勘助が海津城を築くときに水除け八幡として、この地に勧請したとか。

この神社を中心に古戦場の史跡がある。

史跡を含む一帯が八幡原史跡公園として整備され、長野市立博物館や池や緑地が拡がっている。

周囲にはりんご園が拡がっている。



松尾芭蕉句碑
                     八幡社

   十六夜もまた更級の郡かな
                      ばせを


佐久間象山像

広い公園の一角の高いところから、象山は何処を眺めているのだろう。

地球儀か何か、自分で作ったであろう器械を脇に、きっと日本の将来を見据えているに違いない。

今の日本を、多分歎いているのだろう。

3,松代の童謡ゆかりの地  5,須坂から奥山田の宿へ

inserted by FC2 system