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宇都宮寸見

残暑から抜け出したのを機に急に思い立って、宇都宮の街を歩いてみた。これまで通ったことは何回かあったが、街外れの大谷石採石場へ行ったたことを除くと、近いところなのに宇都宮を歩くのは初めて。宇都宮に着く頃になって急に雲が厚くなって、まもなく雨が降ってきそうで、慌ててコンビニで傘を買う。
 
JR宇都宮駅。東北線と東北新幹線が走る。少し離れて東武日光線の宇都宮駅もある。    駅を降り立つと、目につくのは大きな餃子の看板。
ここは餃子で街おこしを進めて今は日本一。
 
「餃子の街・宇都宮」のシンボル。餃子の皮に包まれたヴィーナスがモチーフだって。お気の毒に。    親子の蛙像が餃子の像に並んでいた。どちらも宇都宮特産の「大谷石」に刻まれている。
臨済宗妙心寺派神護山興禅寺。開基は宇都宮城主宇都宮貞綱。寺域は河北禅林と呼ばれる。家康の外孫宇都宮26代城主奥平家昌、家昌の子27・29代城主奥平忠昌の墓所も当寺にあるそうだ。
 
 山門。河北禅林の扁額。    本堂
 
 宇都宮8代城主宇都宮貞綱像
  蒙古来襲に大将軍として出陣。
   宇都宮貞綱と9代宇都宮城主宇都宮公綱墓所
公綱は楠正成との戦いで勇名を轟かす、と。
 
 かんがへてのはじめたる一合の
   二合のさけの夏のゆふぐれ   牧水
  とこしえにたのみがたなき愛染の
   わが目のあたり白菊の花   暮人 
大正9年、若山牧水は下野短歌会主宰の石川暮人(興禅寺住職)に招かれ、宇都宮を訪れた。次の2首が全集の歌集に収められている。第二句は二荒山神社近くの河畔に歌碑があるそうだが見落とした。
      宇都宮市にて
   ひとしきり散りての後をしづもりてうららけきかも遠き櫻は
  町なかの小橋のほとりひややけき風ながれゐてさくら散るなり
 
 日光は雨降るらしもとのぐもる
   下野の野に虹の立つ見ゆ    今東光
  山は遠いし野原はひろし
   水は流れる雲はゆく  雨情
 
 参道の左右に設けられた狭い庭園。枯山水、築山、鹿像…禅宗寺院らしい豪放と静寂、清浄を表現とか
 下野一之宮 宇都宮二荒山神社は、宇都宮市市街の中心に盛り上がった明神山の山頂に鎮座する。東国を鎮めた崇神天皇の第一王子豊城入彦命を祭神として、大物主命、事代主命を祀り合わせる。宇都宮は当社の門前町として発展してきた…… 日光に二荒山神社があるので、宇都宮を冠する。
 
栃木産の大欅作り。高さ9.7m、柱の直径90cm。   神明造の拝殿。 初宮参りの家族が参拝していた。
 
夢の中古里人は老いもせず  前田雀郎    うぶすなの大杉ゆするどんどかな  手塚七木
曹洞宗の寺院。山号は松峰山。1396年(応永3年)に12代宇都宮城主宇都宮満綱により建立。明治維新の際、宇都宮城の戦で長州兵と大垣兵が本寺に篭ったため、会津兵の焼き討ちに会ったが、後に再建。
 
桂林寺山門。     本堂。本堂脇の百日紅が花盛りだった。
 
 寛政の三奇人 蒲生君平墓。蒲生家墓地。    君平墓碑 贈正四位修静院殿文山義童大居士
……朝廷の久しく衰えたるをことをなげきしが、殊に御歴代の御陵のすたれたるを悲しみ、自ら畿内をめぐりて…数多の御陵を取り調べ…山陵志を著し朝廷及び幕府へ…。(尋常小学国史 昭和2年刊) 
君平は1813年に江戸で没し東京谷中の臨江寺に葬られる。のちに実家の墓所に遺髪が分葬された。 
 
蒲生君平順徳上皇の御陵に詣つ。小学国史には高山彦九郎、林子平の事績ともに記述されている。    マリア観音。隠れキリシタンの信仰の対象がなぜここに?
 通りかかった食堂で、「宇都宮の餃子」定食が750円。まあこんなものかな。  
 
 カトリック松が峰教会。現在の教会は1930年に宇都宮特産の大谷石を主材に建築。大谷石建築としては現存最大級のロマネスク・リヴァイヴァル建築であり、1998年に国の登録有形文化財に登録された。
 
塔屋付設計は,横浜在住のスイス人建築家マックス・ヒンデル。      鉄筋コンクリート造4階建て銅板葺き。建築面積:404m2。一階入り口の上部に「1932」のプレート。
 
 聖堂内部。パイプオルガンも備えるそうだ。   突然、アンジェラスの鐘が頭上でなり響きびっくり。 
 宇都宮城は、宇都宮氏500余年ののち各氏が入れ替わり城主となる。将軍の日光社参の宿舎となり、本田正純の「宇都宮吊天井」の舞台として名高いが、これはフィクション。4重の堀を巡らし16基の櫓を配した名城といわれたが、戊申戦争の時幕府軍の手で消失。城址の大部分は売却されで一部が公園となった。 
 
復元された 10mほどの高い土塁と堀と富士見櫓。   土塁の内側は本丸跡と土塁の上の復元清明櫓。 
 
 築地塀の内側。エレベーターで登る。   本丸御殿跡の芝生の広場。天守閣はなかった。
 赤い靴、シャボン玉、船頭小唄、波浮の港、数々の童謡、民謡などを残した詩人野口雨情は、昭和19年に戦禍を避け、武蔵野市吉祥寺から宇都宮の街外れに疎開。ここで自然に親しみ悠々自適の暮らしをしていたが、翌20年1月27日に62歳で病没。 郷里の北茨城市磯原と東村山市小平霊園に葬られる。
 
 あの町この町日が暮れる日が暮れる
今きたこの道帰りゃんせ……     雨情
旧居と街道を挟んで建つ。略歴も記して。
   雨情旧居。居室4室と台所などの昭和初期の住宅建築。国の登録有形文化財。窓越しに雨情の写真などを展示。
 
 「詩人野口雨情 ここに眠る」
しだれ桜に抱かれた巨岩に刻む。
   童心馬。
あの町この町日が暮れる日が暮れる……  雨情
 
 雨情旧居のすぐの裏山の羽黒神社。標高差が多10mくらい。雨情の散歩コースだったのだろう。
旧居の雨情は果樹園や養鶏など自然に親しみながら暮らしていたそうだ。
     蜀黍畑          野口雨情
おせどの親なしはねつるべ 海山千里に風が吹く
もろこし畑も日がくれた にわとりさがしに行かないか 
事前の下調べをろくにしないで急に出かけたので、牧水の歌碑、蒲生神社など見落としたところがいくつかあったが、再訪の予定はない。  

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