雨情の故郷 磯原
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大津港。ここも大震災の4.6mの津浪が押し寄せて被害を受けた。船影が少ないのは出港中かな? | 出荷停止では網に掛かっても海へ。売り上げは震災前の半分にもならない。たった3分で競りは終了 | ||
二つ岩。もう一つは? 鵜が十数匹並んでいる。 | 通りゃんせの像。 | ||
二つ島 二つながらはとこしへに はなれ小島山となりしより 春のおぼろの玉くしろ まねきしいものおもかげは 月の潮路となりにけむ 雨情 |
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歴史民族資料館(野口雨情記念館) | 記念館を背に雨情像。左右に子供を従えて。 | ||
野口雨情(1882-1945)磯原の実家は水戸藩の郷士、広大な山林を有し回船業を営んでいた。雨情は詩作の傍ら新聞社、雑誌社、炭鉱事務所に勤務。63年の生涯で童謡、民謡など3000余篇を創作。代表作はさて? シャボン玉、七つの子、赤い靴、青い目の人形、証城寺の狸、黄金虫、船頭小唄、波浮の港……。 |
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野口雨情像。ペンとノートを持って 詩作中。 | シャボン玉を飛ばす子どもふたり。 | ||
像の前を通ると、シャボン玉の歌が聞こえて、どこからともなくシャボン玉が飛び始めた。シャボン玉の作曲者中山晋平記念館(長野県中野市)も子どもの像がありメロディーが流れてシャボン玉が飛んだ。 | |||
なつかしい想いをこめて。 この曲は雨情先生の詩に作曲した「かもめ」という私の作品です、…… 高木東六」 |
磯原小唄。天妃山からハ東をね 東を見れば テモヤレコラサ 見えはしないが 見えたなら あれはアメリカ チョイト 合衆国 |
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雨情顕彰碑 遠く朝日は海よりのぼり 千里奥山 夜が明ける |
吉田松陰先生来歴之地碑 右端に松陰の「磯原客舎」の七言絶句を刻む。 |
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嘉永5年(1853)、23歳の吉田松陰は北辺警備視察の途上、磯原に立ち寄り野口家に泊り、酒を飲み大いに語り合ったそうです。その時一編の詩「磯原客舎」を残したのが、伝えられている。吟詠の題材として愛唱されている由。松陰は酒には弱かったようだ。 海樓把酒対長風 顔紅耳熱酔眠濃 忽見萬里雲涛外 …… |
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天妃山地図。全景を撮るのを忘れるうかつさ。 高さ21m。周囲400m程、山だけなら周囲200m。 |
大北川河口。左端が天妃山。 |
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弟橘媛神社参道。 | 拝殿。 | ||
天妃山は昔朝日指峰といい薬師如来を祀っていた。元禄3年徳川光圀公が像を松山寺に移し、唐の高僧心越禅師の奉携してきた天妃神をここに祀り、磯原大津の海の守護神とした。……天保2年徳川斉昭公が日本武尊の妃弟橘媛命を祀り、弟橘媛神社と改め、天妃神は合祀となった。 (説明板) | |||
西山公腰掛石。光圀が腰掛けてこの山頂から→ | 眺めた景色は広がる太平洋。 | ||
常陸磯原に天妃山あり、小丘なり いそ原やおとにもきゝしたなめ山によせてはかへる沖つ白波 長塚節 |
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天妃山碑。「西山義公肇建元禄三年」などとある。 山の由緒を記すのかな? 天明九年の建碑。 |
写真を拡大してよく見ても文字が摩耗していて全く読み取れない。 | ||
野口雨情生家全景。海から200m余。街道からは50m程に位置する。 | 雨情資料館。筆跡、カルタ、著書……数々の資料が展示されていた。 | ||
「築148年になります。大震災で傾いたし家の中に1.5mも海水に浸かったのですよ。それを全部修復した……」係のご婦人がそんな話もしてくれた。どこにも浸水の痕跡も無かった。修復も大変だったろう。 | |||
雨情生家。領内巡視で訪れた光圀は二階の眺望を讃えて「観海亭」と命名。 | 見えにくいが門に菊水の紋がある。野口家は楠正成の弟が祖先なんだって。 | ||
数十年前に来た時には資料館はなく、室内も案内して貰った。雨情の居室という眺望のよい二階へも上がったが、その階段は見当たらず。一階だけ見ても、旧家としての風格を見て取れる。 | |||
庭園越しに生家を見る。広い敷地にはそのほかの建物もいくつもあったのだろう。 | おもい出させる磯原ぶしに 末の松並濡れかゝる 音羽時雨 |
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磯原節。 磯原海岸 末の松並東は海よ 吹いてくれるな潮風よ 風に吹かれりゃ 松の葉さえも オヤ こぼれ松葉になって落ちる 雨情 |
烈公(徳川斉昭)詠 磯原海岸 四のとき 咲きて変わらぬ波の華 ながめ徒せぬ 磯原の里 天保4年(1833)領内巡視の際。 四のとき=四季 |
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からくり時計。青い目の人形など3曲を1日7回を演奏。天心の六角堂をかたどる。 磯原駅前 | 岡倉天心のレリーフとその略歴をきざむ。 磯原駅前 | ||
常磐線を高萩、日立などを通りすぎて勝田まで行き、そこから那珂湊へ向かう。 |