アンコウとアララギ派の故地の平潟
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平潟港は仙台江戸間の唯一の自然港。寛永年間、仙台藩がここに築港、陣屋を置いて海路運送を始めた。寛文10年河村瑞賢が幕命により仙台荒浜より江戸間の航路を開拓し、平潟港に番所を置いた。 多くの廻船問屋が軒を並べて、遊女屋もあったそうだ。「ハア恋翔妻潮受けてここは平潟道のく境 波を片瀬に入船出船 港平潟よい所 サテよい所」(平潟小唄) |
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嘉永5年 吉田松陰が北辺警備の実情探索のため、江戸から水戸、平潟……津軽半島を回る。 嘉永6年、 藤田東湖がこの地に遊び、「山静海平」の一書を残す。 慶応4年5月 上野戦争を敗走した旧幕軍は、輪王寺宮を奉戴し幕府軍艦で江戸を脱出、平潟に上陸、 陸路会津に向かう。 慶応4年6月 新政府軍が上陸、平潟総督府を置く。反新政府勢力が総督府を攻撃。 |
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長塚節は療養のため、明治39年6月28日から7月19日までまで平潟温泉の宿に宿泊しながら近隣を歩いていた。節や茂吉の泊まった宿は、既に廃業してしまったという。 松魚船入江につどひ檣に網建て干せり帆を張るがごとし きららかに磯の松魚の入日さしかゞやくなべに人立ち騒ぐ 斎藤茂吉は大正4年8月、新妻とともに、長塚節をしのぶ旅で平潟を訪ねて泊まる。 平潟へちかづく道に朝は落つ捨身あんぎやの我ならくに いりうみの汐おりかかる暁方の舟の揺れこそあはれなりけれ 茂吉に師事したアララギ派の歌人佐藤佐太郎は平潟尋常高等小学校を卒業。 夜更けて寂しけれども時により唄ふがごとき長き風音 きはまれる晴天はうれひよぶならん出でて歩めば冬の日寂し 蜩――大正十一年夏、、平潟にて―― 西条八十 今日、われ後の松山に入りて/ 蜩のすがたを見たり われ、昔、/ この虫のかたちを知らず、 ただ遠くそが音を聞きて/ さびしさに涙ながしき。 ………… |
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「東日本大震災写真保存プロジェクトYahoo Japan 」から、左 2011.3.17、 右2011.5.31撮影 | |||
東日本大震災で、平潟は震度6強、港が完全に干上がり、6.9mの津浪が押し寄せたそうだ。平潟を含む北茨城市全体では、全壊188戸、半壊1282戸、一部損壊4712戸、死亡者10名という被害があった。(茨城県調べ)。また、ここは福島原発から46kmの距離に位置する。放射能汚染によるヒラメ、シロメバルなどの海産物の出荷制限や自粛規制、それに風評被害で、網に掛かっても海に戻すという。一体いつになったら……。震災で大きな被害受けたその跡は、すっかり復旧したのか、ちょっと見当たらなかった。 閑院宮(白河宮能久親王)が休息したという、平潟を支配していた浦役人の鈴木主水屋敷が残されていたが、大震災で倒壊とのこと、そこには「白河宮能久親王上陸記念碑」があるそうだが今は立入禁止。 |
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八幡神社。寛和元年(?)、鎌倉八幡宮より御分霊。祭神誉田別命。港を見下ろす高台に鎮座。 | 芭蕉句碑 八幡神社 文政3年建碑 此あたり見ゆるものミなすゝし はせを |
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八幡神社の境内に平潟の歴史を記す説明板があったが、そこに誤字が。藤田東湖が生まれたのは文化3(1806)年 、平潟に遊んだのが 寛永6(1629)??。ここに八幡神社を勧請したのが寛和元年(985)、鎌倉に頼義が石清水八幡を勧請したのが康平6(1063)年。確認されて修正なさってはいかが。 | |||
薬師堂。八幡神社と港を挟んで向かい合う。 | 名物のアンコウのどぶ汁を味わうこともなく……。 | ||
長浜海岸。この辺の40万坪の広大な土地が、先の戦争末期には住民立入禁止だった。 | 風船爆弾放流地跡 忘れじ平和の碑。碑の下部に一編の詩。↓ |
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昭和19年11月から20年4月の間、アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流した地。放球台、兵舎、水素タンクなどが置かれた。約9000個飛ばし、900個ほどが到着、山火事を起こしたり6名の死者を出した。 風船は直径10m、手漉きの和紙をこんにゃく糊で何層にも貼り合わせ、宝塚劇場、国際劇場、国技館などで動員された女学生や女店員達が、厳重な秘密裏に作業に当たった。郷里の小学校では高等科の生徒が講堂に広げて網を編んでいたことを思い出した。風船爆弾の網だって。秘密は筒抜けだった。 |
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長浜から数百メートルで今宵の宿のある五浦海岸。旅はさらに雨情の磯原、海浜公園の那珂湊と続く。 |