海浜公園と水戸藩ゆかりの地ー那珂湊

那珂湊(今は町村合併でひたちなか市)は、その名の通りの港町、江戸時代は海上交通の中継地として、その後漁業の基地の役割を担う街。磯原から常磐線の鈍行50分で勝田駅に降り立ったのは、ここにある公園が花盛りだと聞いて、ちょっと足を運びたいと思った。
 
 ここは国営ひたち海浜公園。太平洋に程近く、面積は350haも。そのうち開園されているのは半分以下とのこと。園内には山林、草地、砂丘、海浜などもあり、様々な施設が園内各地に設けられていた。
 
ここは戦前は陸軍水戸飛行場。戦後米軍が接収して射爆場だったのが返還されて公園化へ。
 
左は地下3mから掘り出された250kg爆弾。返還されたここは、「不発弾が埋まる荒涼たる射爆撃場の跡地」だった。園内には「歴史ギャラリー」があって、この地の歴史や資料が展示されていた。
 
プレジャーガーデン。カッパさんの昔話館、UFOサイクル…。有料の遊びが30種ほど。  
 
 芝生広場では幼稚園児が走り回り、先生大変。    手つかずの自然林には絶滅危惧種の草花も。
 
 
 「見晴らしの丘」標高58mの丘全体を450万本のネモフィラが彩る。安カメラとこの腕ではとてもとても。
 
江戸時代建築の民家を移築。農村風景を再現。     ベイゴマ、剣玉、お手玉…懐かしい遊びの広場も
 
広い園内の多分3割程だけ歩いたが、ほとほと疲れた。丸一日がかりでないと全容がつかめない。案内図を見ると、陶芸棟、砂丘・砂礫・ロックガーデン、大草原、いくつものレストラン、レンタサイクル……も。 
 
 公園に隣接の阿字ヶ浦海水浴場の近くの海岸は、「中世期白亜紀層からなり、海食崖の前面に波蝕棚が発達している」学術的に貴重なんだそうです。右の写真が海食棚かな? 
 
 海浜公園から数キロの那珂湊の港近くの「湊公園」は、水戸光圀が建てた別荘跡。その湊御殿は約300坪の広大なものだったそうだが、幕末になり藩内の尊皇派(天狗党)と佐幕派(諸生党)が抗争した元治甲子の乱(1864)で焼失。水戸から約10kmの那珂湊は、那賀川を下っての外洋への出口でもあった。公園の一角の「イワレンゲ」の自生群落は珍しいそうだ。 
 
 今は建物はないが、須磨明石から移植した見事な老松がかつての御殿を想像させる。ここは那賀川の河口に隣接する標高50mの高台で、海防見張番(異国船番所)も置かれていた。 
 
那加川の海に入るなるいやはての 海門橋の白き夕ぐれ                    与謝野晶子
那賀川の水は青く澄み飛んでゆくかもめの羽影をさへうつしそうに見える。橋は静か… 小山いと子
 那賀川の河口に掛かる海門橋は400m余。対岸は大洗町で水族館がありフェリーも発着する。 
 
反射炉(復元)徳川斉昭は海防の必要から大砲鋳造をするために安政年間、高さ15mの反射炉2基を建造した。ここではカノン砲など十数門の大砲が鋳造されたそうだ。しかし、苦労して建造した炉は元治元年(1864)の元治甲子の乱で破壊。炉の前に置かれた大砲は、ここで鋳造したものではない。 
 
煉瓦焼成窯(復元)4万枚の耐火煉瓦を焼く。
領内各地の土を探して苦心の上焼成したよし。
  山上門。江戸水戸藩小石川邸の唯一の遺稿。隆盛、象山、左内、小楠らの志士もくぐったそうだ。
 
ひたちなか海浜鉄道那珂湊駅。大正2(1913)創業当時の駅舎。JR勝田駅から 阿字ヶ浦駅までの計9駅14.3kmを運行している第三セクター。ここも赤字路線で廃線の動きもあったが、地元民が応援団を結成するほか、駅猫、様々なグッズ販売など、また銚子電鉄などのローカル鉄道との提携も。
 
華やかなラッピング電車も動いていた。地方鉄道はどこも経営が大変なようだが、地元民にとっては大事な足。勝田駅へ向かう電車は、下校時か高校生たちでほぼ満席。いつもこうなればいいが。  
 
 デザイン化された駅標。    那珂湊特産、名産の干し芋。
 旅人のほとんどが立ち寄って土産物を買うという魚市場、計画ではそこも寄るのだったが、海浜公園での時間が予想外に延びて市場は割愛。土産は何もなくてはと、勝田駅で干し芋だけ買って帰った。 

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