小江戸の川越 その2

川越は城下町。長禄元年(1457)太田道真・道潅父子の築城に始まり、本格的な築城は道潅の手になり、濠が二重に囲む平山城。その後、拡張整備が進められ、5つの郭、3つの櫓、13の門をもつ総面積9.9万坪(約32.6万㎡)の巨大な城郭となった。主は次々と変わり、最後は松平8万石で廃藩を迎えた。 
 
 川越城本丸御殿。弘化3年(1846)城主の居所である二の丸御殿が焼失、嘉永元年(1848)本丸に新たな御殿を建てる。17万石を領していた時期で、16棟、1025坪の規模を誇っていた。廃藩後は工場、武道場、中学校体育館などと移築、解体で転々としてきたが、その一部を修理復旧して公開。入館料100円。唐破風の玄関に36畳の大広間など6つの部屋が南北に連なる大きな建物に、別棟の7部屋ある家老詰所などが並ぶ。 
 
 家老詰所。人形です。    長廊下。何メートルか説明はない。
 
広間。36畳の部屋に甲冑が陳列     中庭。二つの資料展示室で関係資料を展示
 
三芳野神社。寛永元年(1624)城主酒井忠勝が家光の命を受けて城内の守護として造営したもので、天海大僧正を導師として遷宮式が行わる。城内の天神曲輪に位置するが、時間を区切って参詣することが認められた。しかし、密偵が城内に入り込むことをさけるため、帰りの参詣客は警護の者によって厳しく調べられた。そのことから「行きはよいよい、帰りは怖い……」と唄われるようになった。  「とおりゃんせ」の歌はここが舞台だという。
 
 わらべ唄発祥の所。この碑面はおかしい。
「とおりゃんせ」発祥というのならわかるが。
   太田道潅像。市役所の一隅に立つ。道潅は川越発展の道を開いた恩人なんですね。
 
砧うつ隣りに寒き旅寝哉    正岡子規    鐘つき堂商店街。なにか淋しい。
 
時の鐘は、寛永年間に川越城主が建てたものが最初。現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建。 3層構造の塔で、高さ約16mの川越のシンボル。今は午前6時・正午・午後3時・午後6時に鳴る。    川越小唄。西条八十作詞 町田嘉章作曲
  春はうらうら 多賀町あたり
  鐘も霞の ヤンレヤンコノ 中で鳴る
  鐘もかすみの中で 鳴る 
      環境庁選定「日本の音風景百選」
 
鐘撞き堂をくぐると薬師神社。本尊は行基作と言われる薬師如来立像。 寺? 神社?   通りには菓子屋が多いように見えた。左の店で 看板商品「いも恋」を味わう。うまい。
 
蔵造りの町並みの一番街。蔵造りの町並みができるきっかけは、明治26年の大火。この大火で焼け残った建物が伝統的な工法による蔵造り建物であったので、同じ惨事を繰り返さないよう、競って蔵造り建築による店蔵を建てた。国の重要伝統的建造物群保存地区。
 
 菓子屋横丁。関東大震災のあと東京に代わって駄菓子を製造供給するようになり、昭和初期には70軒ほどの業者が軒を連ねていたが、今は20数軒。横丁が醸し出す雰囲気と下町風の菓子の懐かしいかおりが漂うということで、環境省の「かおり風景100選」に選定。この日は休業日なのか開いている店も少なく、人通りも少ない。 かおり? 気づかなかったなあ!
 
芋煎餅、芋チップ、焼き芋羊羹、金平糖、きなこねじり カルメ焼、おかき、あんこ飴……   川越の土産は、なんといってもサツマイモ素材のお土産をと、少し買い求めた。
 享保の大飢饉以降、飢饉の食糧不足に備えるため徳川吉宗は青木昆陽を起用して関東にサツマイモの普及を図った。のちに、川越藩主・松平直恒が徳川家治に川越でとれたサツマイモを献上したところ「川越いも」の名を賜り、寛政年間に焼芋屋が繁盛し「川越いも」の名が広まったそうだ。今はその当時と同じ種類の芋ではないようです。
  今回も慌ただしい旅になってしまった。この日程を二日に分ければ、ゆっくりと訪問先の雰囲気を味わうことも出来るだろうし、資料館などものぞけるのに、生来の貧乏性はなかなか抜けるものではないようだ。

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