三島を少しだけ歩く (西伊豆の旅4)
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天城山を源流として沼津で駿河湾に流れ込む狩野川の名は、流域に多大の被害を及ぼし多数の死者を出した1958年の狩野川台風によって記憶された。その後も浸水や倒壊など度々災害が起きている由 | |||
三嶋大社は伊豆国一宮・総社。大山祇命(恵比寿)、積羽八重事代主神が主祭神。二柱の神を総じて三嶋大明神と称する。源頼朝は伊豆に流された頃から崇敬し、幕府成立後は伊豆山神社、箱根神社とともに重んじた。鎌倉時代以降、武士の崇敬が篤かったという。(三島大社ではなく三嶋大社) | |||
安藤広重 東海道五拾三之内三島。 三嶋大明神大鳥居前から霧の中の早立ち。 |
たたり石。大社前の旧東海道の中央分離帯の役目をしていた石。たたりとは糸の縺れを防ぐ器具。 | ||
のずゑなる三島のまちのあげ花火 月夜の空に散りて消ゆなり 牧水 |
相生いの松。まだ若木だ、根本から幹が二つに分かれている。多分何代目かなんだろう。 | ||
神池。参道の両脇には水を湛えた大きな池。きっと富士山の伏流水が湧き出るのだろう。大きな鯉が悠々と泳いでいたような。 | 古今伝授のまち三島。古今集の語句の解釈秘説を伝える伝授は、東常縁から宗祇へ郡上市で文明3年に行われた筈だが、三島市でとは???? | ||
厳島神社。北条政子が勧請。商売繁盛、安産、裁縫の守護神として信仰される。 | 総門。外構えの門 。昭和6年、初めて台湾檜が使用された昭和の神社建築の代表的建物。 | ||
本殿。嘉永6年(1854)の東海地震で罹災し再建された社殿。総欅素木造(重要文化財) | 金木犀(天然記念物)樹高約10m、目通り周囲約4m、樹齢約1200年。風向きにより10km先までも | ||
どんむりとあふちや雨の花曇 芭蕉 説明板と碑面の文字が異なる。当社で詠んだ?路傍で詠んだとも。「あふち」は栴檀。 |
源頼朝旗揚げの碑。治承4年8月16日源頼朝は北条時政を招き旗揚げの相談をし「先つ八牧判官を夜討ちにすべし…」「今夜は三島社の御神事に…」 | ||
三嶋大社には北条政子奉納国宝「梅蒔絵手箱」(模造)など大社の歴史と資料を展示する宝物館、舞殿、伊豆魂神社、神鹿園、頼朝と政子が腰掛けたという腰掛石などもあるそうだが見落としたり断念。 | |||
三島水辺の文学碑。桜川のほとりに幾つもの文学碑があるというので、辿りながら楽寿園に向かう。 | 井上靖碑。三島町へ行くと道の両側に店舗が立ちならび、まちの中央に映画の常設館が……。 | ||
穂積忠碑。 町中に富士の地下水湧きわきて 冬あたたかにこもる水靄 |
太宰治碑。町中を水量たっぷりの澄んだ小川がそれこそ蜘蛛の巣のように縦横無尽に残る隈なく駆けめぐり、清冽の流れの底には水草が…… | ||
「清冽の流れの底には水草が青々と生えて居て、家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり」 川を覗くと水底には長い藻が揺らでいた。 |
桜川。白滝公園などを水源とする4km程の川で、流れ下って狩野川に注ぐ。水は透き通り、ゴミなどはない綺麗な川に陶器の小さな破片が目立つ。 | ||
正岡子規碑。三島の町に入れば 小川に芋を洗ふ女のさま ややなまめきて 面白やどの橋からも秋の不士 |
十返舎一九碑。日も暮れに近づき、入り相の鐘かすかに響き……ようやく三島の宿につくと、両側よりよびたつる女の声々…「お泊りなさいませ…… | ||
宗祇碑。 すむ水の清きをうつす我が心 宗祇が三島で古今伝授を受けたと刻む。 |
平井源太郎碑。源太郎は農兵節を宣伝し三島の名を全国に広めた。 富士の白雪朝日に溶ける三島女臈衆の化粧水 |
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白滝公園 。欅の木々が生い茂る、足下には溶岩が露出、あちこちに富士の雪解け水が湧きだして桜川へと流れ込む。かつては三島第一の湧水地であったが、今は水量も少なくなって細い流れとなる。 | |||
白滝公園の隣、駅の直ぐ傍に国指定天然記念物名勝区域の「楽寿園」という公園がある。小松宮彰仁親王別邸として造営、今は三島市が管理。庭園の他に動物広場。郷土資料館などがある。 | |||
小浜池。湧水は上流の地下水くみ上げ量の増加で年々地下水位が低下し、満水にはならない。 | 池の先の楽寿園。定時にだけ案内付きの公開。 京間風高床式数寄屋造。 |
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この日の水位はー37cm。荒涼たる溶岩の河原。 | 梅御殿。楽寿園と共に建築された別邸。見学不可 | ||
ととろ揚げ。楽寿園の傍の蕎麦屋で昼食に食べた。ととろを海苔で包んで揚げた珍品。おいしい! | 農兵節像。女性も兵士として参加(徴用?)したんだなあ。 | ||
富士の白雪ゃノーエ 富士の白雪ノーエ 富士のサイサイ 白雪ゃ朝日でとける とけて流れてノーエ とけて流れてノーエ とけてサイサイ 流れて三島にそそぐ 江川太郎左衛門は日本を外国の攻撃から守る必要性を幕府に訴え、大砲を製作する一方、農夫を集めて、訓練に力を注ぐ。三島調練場で行われた農兵の訓練では志気の鼓舞と団結を図るため、鼓笛隊が組織されたという。そこで歌われたのがノーエ節(?)で、それを平井源太郎が農兵節に(???) |
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天気予報がずれたり、船に乗り遅れるなど幾つもズレがあったが、これも通例。まあいい旅だった。 |